monologue : Other Stories.

Other Stories

ハレルヤ

「もう、おばあちゃん、またカップ並べて」

マリーンは誰にも聞こえないようにつぶやいて、義母がいるであろう寝室へ向かった。彼女は自分の結婚は大成功だと思っていたが、夫の父親が他界し、身寄りのなくなった彼の母親が二人の家へ移り住むと決まったときには、家庭の全てを放棄して逃げ出したいほどの気持ちになった。

「私が介護? 私が介護ですって!?」

誰が悪いわけでもない。はけようのない不満や焦りは、夫に向けられるしかなかった。

「聞いてくれマリーン、母さんにはもう身寄りがいない。僕が面倒をみるしかないんだ」
「わかってるわ、わかってる、そんなこと。身寄りがないことくらい」
「だから、この家にいてもらうしかないんだ」
「どうして!? 介護なら専用の施設の方がよっぽどいいわ!」
「でもマリーン」
「お金なら私が働けばなんとかなるでしょう? 素晴らしい施設だってきっとすぐに見つかるわ」
「母さんがここに住むことは、きっと君のためにもなる」
「私のため?」
「二人で助け合いながら、家事をやっていって欲しいんだ」

それ以上彼女に言えることはなくて、吐き捨てずに飲み込んだセリフが何度か寝言に出るようになったが、それでもマリーンは承諾した。その二週間後、小さな旅行カバンに全て詰め込んで、夫の母が二人の家にやってきた。

「二人で家事? 冗談じゃないわ、介護が必要な人と家事なんて!」

夫の母-マリーンにとっての義母-は、どうやらアルツハイマーを患っているらしかった。普段は何事もないのだが、ふとしたときに、数分前のことすら思い出せないようなことになったり、自分でもわからないことをしていることがあるらしい。

「カップを並べるのは何回めかしら」

寝室へのドアを開けると、案の定、義母はそこにいた。

「おばあちゃん、またカップ並べたでしょう」
「あら、そうだったかしら」
「何か飲むときは一つのカップで済ませるか、使い終わったカップは流しへ置いておいてくださいな」
「ごめんなさいね、マリーン。自分では全然覚えがないのよ」
「仕方ないわ、そういう病気なんだもの」

マリーンはたまに自分のすることに嫌悪感を抱くことがあるが、それはちょうど今のように、皮肉めいたセリフをその気なしにさらりと言ってしまうようなときに、もっとも強く感じるのだった。ああ自分はなんて酷いことを平然と言ってのけるのだろう。そう自分を責め、相手が申し訳なさそうにしているなら、その気持ちはもっと強くなるのだった。なんて酷いことを言ってしまったのだろう、と。

「ごめんなさいね」
「わかってるわ、悪気があったんじゃないもの。仕方ないわ」

ばつが悪そうに寝室を出て、ドアを閉めて小さくため息をつく。とりあえずカップを洗おう。もしその後まだ気になるようだったら、彼女に謝ろう。条件つきの謝罪を考える自分にまた少し幻滅しながら、マリーンはキッチンへ向かった。

「どうしてこんなことになっちゃったのかしら」

マリーンは廊下を歩きながら、夫と二人っきりだった頃の生活を思い出していた。

まだ持ち家でなかった頃のこと、新居に移り住んですぐの頃。それ以降は三人の生活になって、あまりいい思い出はない。ずっと子供もいないままだ。

誕生日と結婚記念日には二人でパーティをして、小さめのプレゼントの箱を照れながら渡す夫に何度もキスをした。中に入っていた有名なブランドの口紅をつけて、彼の頬にキスマークをつけてはしゃいだものだ。

休日にどこかへ出かけることは少なかったが、よく、映画のビデオを借りてきて二人で見た。古くさい名作だとかホラームービーだとか、たまには新婚みたいにラブストーリーを見たりもした。部屋の照明を暗くして、映画館にいるような雰囲気を味わったり、コーヒーを飲みながらリラックスして見る映画も好きだった。

「そうだ、今度の休みには映画を見ようかしら」

夫が帰ってきたら相談してみよう。そう思いながらマリーンは廊下を歩き、やがてキッチンの前を通り過ぎそうになってからつぶやいた。

「あらいけない、夕飯の支度するんだった」

キッチンへ入り、テーブルの上に並んでいるカップを見て、小さくつぶやく。

「もう、おばあちゃん、またカップ並べて」

そして彼女は寝室へ向かった。カップには、彼女のお気に入りの、夫にもらった口紅の跡がうっすらと残っていた。

Fin.

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